松の煤

ーまつえのすすー

緑が茂る木々に囲まれた狭い山道を、車がガタガタと下っていた。

突然、黒い影が車の前へ飛び出した。

急停車した先には一匹の仔犬がいた。

運転手が目を凝らすと、カーブの先におばあさんの姿が見えた。

車が慎重に走り去るとき、振り向いたおばあさんは足元にうずくまる仔犬を見つけた。

「真っ黒して子熊かと思ったら、白い眉なら黒柴かい?こんな山奥にどこから来たの?ぶるぶる震えて──うちへくるか?」

嬉しそうにワンと吠える仔犬の口元。

おばあさんは、指先の曲がった手でそっと撫でた。

仔犬はもともと声が無かった。

そのぶん、しっぽを全力で振ってみせた。

「そうか。そうか。」

おばあさんの耳はほとんど聞こえてないが、目は良く見えていた。

おばあさんは背中の籠に仔犬を入れ、家へ連れて帰った。

「名前はなにがいいだろうねぇ。」

山羊の乳を飲んでいた仔犬は仏壇の前へ行って、お座りした。

「じいさんは、ケンゾウ。この子はケンタ。」

仏壇の写真を示しながら、おばあさんが呟いた。

数年前におじいさん、大きくなれなかったひとり息子はずいぶん昔に、先にあの世へ行った。

兄妹も皆年老いて、おばあさんだけがひとり残った。

仔犬は舌を出して、しっぽを振った。

「ならあんたは、ケンだろう?──ケンちゃんかい。」

笑うおばあさんの周りを、仔犬は跳ねて回った。

ある日、遠くの茂みから、枝が折れる音がした。

畑に種をまくおばあさんの背後に、黒い気配がゆっくりと近付いてくる。

気付いた犬は、咄嗟に吠えたが声は出なかった。

犬はすぐに山羊小屋へ駆けていった。

何度かジャンプして外から扉を開けると、二頭のうちの一頭が、勢い良く飛び出した。

山へ逃げる山羊を見たおばあさんは、もう一頭が逃げ出さないように小屋へと急いだ。

その間に、畑へ冬眠から覚めた熊が現れ、逃げた山羊を追って行った。

翌朝山羊だけが戻ってきた。

「困ったいたずら者だねケンちゃんは。」

申し訳なさそうにうなだれた、大きく立派に成長した柴犬を、おばあさんは仔犬を扱うように撫でた。

「驚いた。まだあんなに速く走れるなんて…ふふふ、思いもよらなかったよ。ケンちゃん、どうもありがとう。」

仔犬が日に日に大きくなり、山に入る度におばあさんの籠を重くしていたせいで、おばあさんは山羊小屋まで、とても速く走ることが出来た。